どうしても払拭しきれない思い

最近は下火になったかなと思うけれど、今でも目にする、耳にする言葉がある。
「世界に通用する日本となるためには、国際感覚を養う必要がある」というものだ。
経済大国と言っていた時代なら、それもアリだろう…商売相手ありきなのだから。
モノづくり大国と謳っている今では、陳腐な言葉だ。


海外に売り込めるモノづくりを行ううえで、国際感覚を養う必要性を感じない。
それは、今世界に認められ、売れているモノは、日本文化が色濃く反映されているものだからだ。
僕の知識では、今、世界で名を知らしめている日本文化/製品で、はじめから世界戦略商品だったものは少ない。


もちろん、売り込むといった段になったら、国際感覚は必要だ。
「製造」と「販売」という、工程の違いを意識するべきだと思っている。


日本刀。
その鋭さは、文化そのものを象徴するに足りる。
扱い方は繊細で、美しく、そしてもろい。


浮世絵。
美術品として名高いが、当時の日本では雑誌感覚。


寿司。
ハンバーガーより早い時期に出来たファーストフード。


乾電池。
日本で売れないどころか認知されず、外国での利用から花開いた。


漫画。
日本市場ありき。
実写での映画監督も、漫画家からでてきたら面白くなりそうなものだと思う。


ゲーム。
日本市場ありき…だった。
日本人という客を満足させるだけのクォリティを求めて開発されたゲームは、世界に認められた。
世界を相手に開発を始めたころから、面白さが激減したと感じている。


スーパーカブ
Hondaの世界戦略商品だが、合言葉は「蕎麦屋が片手で運転できるように」と日本市場ありきの開発。
そもそも、ナイセストピープル戦略を始めるまでは諸外国に売り込みを掛けることが無かった。
(Hondaサイトの掲載漫画参照)
というか、本田宗一郎氏自体、日本という文化を根底に「神社仏閣スタイル」を持つバイクを開発している。


個人的な考えであることを承知で言えば、日本でのモノづくりの原点は、日本という文化をもつディープな発想ありきだ。
それは国際感覚という言葉に代表される"社交性"とは別物であって、個人という才能の結びつきを言っている。
うまく表現する言葉を持ち合わせてないけれど、「国際感覚を養う」という名目での迎合ではなくて、「雰囲気に取り込む」という。


「物事にはストイックに打ち込んで、しかもそれを楽しむ」というのが、日本人への僕の所感。
もっとも、これは戦後の諸先輩方たちへ向けたものだ。
同年代に対しては、自分に対する評価もあって判断できていない。
そのうち分かるだろう。


いろいろ書いたけれど、言いたいことはひとつだけ。
国際競争力を強くしたいなら、国際感覚ではなくて、自国文化への理解を深めることが近道だ。
非常識のなかにこそ、売れる商品は作られる。